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義仲との戦い

頼朝にこんな事が起こっていたのですね。

本当にびっくりです。


寿永2年(1183年)春、相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で二千余騎を率い待ち構え、頼朝は十万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返し、行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。

頼朝と和した義仲は、行家と共に平家との戦いに勝利を続け、7月に平家を西国に追い京に入ると、後白河法皇に召され平宗盛ら平家一門追討の命を得る。しかし義仲とその兵は、平家を越えるとも評される悪行を働く。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平家追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。しかし10月7日、頼朝は使者を返し要請を断る。その理由として、一つは藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れ、二つは数万騎を率い入洛すれば京がもたないとしている。同日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復した。14日には平家の東海道と東山道の所領を元の本所に戻すとの宣旨が下され、頼朝は従わぬ者の沙汰を命じられる。

閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平家追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征夷大将軍に任ぜられる。しかし20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国粟津で討たれた。

頼朝は婿として鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って追手を発し、24日に武蔵国入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2008年01月08日 19:33に投稿されたエントリーのページです。

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